2021.11.02 [イベントレポート]
「大塚さんは優しくて包容力のあり博識な人」11/1(月)トークショージャパニーズ・アニメーション「アニメーター・大塚康生の足跡」『じゃりン子チエ』

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©2021 TIFF

 
11/1(月) ジャパニーズ・アニメーション「アニメーター・大塚康生の足跡」『じゃりン子チエ』上映後、山本二三美術監督をお迎えし、トークショーが行われました。
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山本二三美術監督(以下、山本監督):みなさん、こんにちは。アニメーション美術作家の山本と申します。『じゃりン子チエ』を40年位前に美術を担当いたしまして、久しぶりに映画館で『じゃりン子チエ』を観ました。自分で言ってはおかしいですが、すごく感動しました。苦しいことを思い出したりして、感動しているのですが、高畑勲監督の素晴らしいストーリー、ドラマ、世界がよくて、また大塚康生さん、小田部さん、作画監督の作画がものすごく素晴らしくて。私は当時27歳だったのですが、高畑監督は45歳ぐらいでした。27歳の私がお役に立てるかどうかということを危惧していたのですが、完成した時は嬉しかったです。本日はありがとうございます。よろしくお願いします。
 
藤津亮太プログラミング・アドバイザー(以下、藤津PA):『じゃりン子チエ』に参加することになった経緯を教えていただけますか。
 
山本監督:宮崎駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』を、テレコム・アニメーションフィルムというところで宮崎駿さんの助手のようなことを背景画でやっていたんです。その後、プロデューサー的な仕事をしていた大塚康生さんにオファーを受けまして「続いて美術をやってくれないか」と言われました。
 
藤津PA:大塚さんは色んな方に声をかけて「参加するといいよ」ということを促してくださる方だったとお話もありますが。
 
山本監督:そうですね。ものすごくネットワークを持っている方です。東京ムービーの社長はテレコム・アニメーションフィルムの社長も兼ねていたのですが、ものすごく信頼感を持っていたみたいです、大塚さんに対して。
 
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©2021 TIFF

 
藤津PA:今回は大塚さんの足跡ということで本作を上映しているわけですが、山本さんと大塚さんの初対面はいつでしょうか?「未来少年コナン」でしょうか?
 
山本監督:当時日本アニメーションという会社に所属していまして、違う作品をしていたんです。それで「「未来少年コナン」の美術が大変だから1話を手伝ってほしい」とプロデューサーに頼まれたんです。そうして1話の手伝いをしに行きましたところ宮崎駿さんの隣に大塚康生さんがおられて。宮崎駿さんは30代だったと思います。私が24歳だったので一回り違いで36歳ですね。ですから大塚さんは40歳以上だったと思うのですが、丸々26本作ることになりました。やっぱりずっといてくれ、ということだったので。そしてものすごく大塚さんの性格が明るかったので、チームワークはすごくよかったです。
 
藤津PA:そうすると、同時の大塚さんのことで覚えておられることはありますか?
 
山本監督:ありますね。大塚さんは最近画集を出しましたが、機関車を描くのがすごく上手で、米軍のジープを持っておられて、日本アニメーションの広い駐車場に1台停めていらして、当時、駐車場を確保するのは大変だったと思います。当時、保谷市の近くに住んでおられて、趣味もすごく多い方でした。「ジ・アート・オブ・コナン」という本が出まして、私も取材を受けたのですが、その中で作画と演出は素晴らしいが、美術のクオリティが少し低いとインタビューを受けながら言われまして、それは自分も感じているのですが、それを大塚さんに嘆いたところ、「君は一生懸命やったし、ほかの人ではできなかったよ」と慰めてくれました。本当に嬉しく思いました。
 
藤津PA:でも山本さん、コナンの時はすごく忙しくて、確か結婚式の朝まで仕事をしていたと伺いましたが。
 
山本監督:25歳のときで、若かったので外注スタッフのアトリエに自分で行っていたんですね。九州の長崎で自分の結婚式を挙げる予定だったのですが、帰り道に自宅の近くを通ったので、ここで降ろしてくださいとお願いしたら、まだ直しがあるからもう少し仕事してくださいと。朝の5時ぐらいまで仕事をしていたのですが、会社を出るときに、「山本君、万歳!」と言ってくれたのですが、万歳と言ってくれるならば早く帰らしてくれればよかったのにと思いました(笑)。一睡もせずに田舎に行くと、知らない人もたくさん来ているんですよ、長男が結婚するというので。みなさんにお礼しながら飲まなければならいのでくたくたになりました。
 
藤津PA:『じゃりん子チエ』のときは、高畑監督と現地にロケハンに行かれて、木賃宿のようなところに泊まられたとか。いかがでしたか?
 
山本監督:木賃宿が出てくるかどうかわからないけれど、一度泊まってみようということになったところ、なぜ木賃宿というか君は知っているか?と高畑さんに聞かれました。若いから知らないと思ったのだと思うのですが、小説が好きで知っていたのですが、「薪を買って、自炊するところですよね」と返すと、よく知っているねと。高畑さん怖いんですよ。タクシーに乗っていたとき、多摩地区に「乞田(こった)」という地名があるのですが、突然、あの地名を読めるか?と聞いてくるのです。高畑さんはものすごく博識で、フランス語も英語も話され、大塚さんも英語は得意でしたけれど。私などは、アメリカに行ったときに中学生英語でとても苦労しました。
 
藤津PA:本作の美術についてですが、山本さんはがっちりとした背景を描かれる印象があったのですが、本作は少しタイプが違うように感じました。何か工夫があったのでしょうか。
 
山本監督:高畑監督と相談しまして、はるき悦巳さんの原作を大事にしようと。そしてキャラクターが3頭身から4頭身しかないんです。ですから等身が低い分、天井を少し低くしたり、日本家屋に多い壁やふすまなどのマチエールをどうやって出していこうか、と相談しました。そこで私が提案したのは、「みずゑ」という美術雑誌が当時出版されていたのですが、その雑誌の創刊が大下藤次郎さんという日本画家の人で。その方が私は好きだったのでよく背景画の勉強のために買って読んでいました。その弟子の人に「君の絵は浅すぎる、もっと洗いなさい」と書いてあったんです、僕の絵ではないんですけど。それが洗い出し技法だと言っていましたね。そして私は油絵も勉強もしていたんですが、日本画も好きでした。安藤広重の「東海道五十三次」や葛飾北斎の「富嶽三十六景」、歌川国芳も好きなんですが、その中で石版画で印刷したような版画ってマチエールがあるんです。そのマチエールを出したら、面白いのではないかと高畑さんに提案しました。さらにはるきさんのペンのタッチも入れようとなりました。
 
山本監督:大塚さんはものすごくきれい好きな方で、我々はポスターカラーを日常的に使ってるんですが、古くなってくると、ポスターカラーの上の方に固まってくるんです。それでそれを落とすと絵の具が使えなくなるので、なくなるまで放っておくんですよね。で、ある日気付いたら、その固まったものが25~26色使うんですけども、全部落とされてるんですよ。そうしたところ、大塚さんが来て片付けて行った、って話がありまして。で、またそれを全部出して使えるようにしました。ですから大塚さんはもう絶対にやらないでください、って。
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©2021 TIFF

 
藤津PA:きれい好きな大塚さんならではのエピソードっていうかんじですかね。
 
山本監督:そうですね。仕事ではもう作画の方はものすごくすごい方だと思うんですね。もう巨匠だと思うんですけど、小田部さんも作画監督ですが、キャラクターデザインはコタベさんがやりまして、大塚さんは絵コンテの清書をやってました。
 
藤津PA:高畑監督と話しながらですね。そろそろお時間になってきたんですけれども、改めて大塚さんってどういう方だったのか、思い返していただくといかがですか?
 
山本監督:すごく優しくて包容力のある人で、また博識なところがありましたね。それで宮崎駿さんや高畑勲さんを立てて少し後ろに下がるようなかんじで支えてくれましたね。『じゃりン子チエ』でオファーをくれたことに関しては大塚さんにすごく感謝しております。

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